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東京高等裁判所 昭和50年(行コ)70号 判決

三九号事件控訴人(原告)兼七〇号事件原告 山口武

三九号事件被控訴人(被告) 静岡県人事委員会

七〇号事件被告 静岡県教育委員会

主文

昭和五〇年(行コ)第三九号事件につき、本件控訴を棄却する。

昭和五〇年(行コ)第七〇号事件につき、控訴人の請求を棄却する。

当審における訴訟費用はいずれも控訴人の負担とする。

事実

第一申立

(控訴人)

1  三九号事件

イ 原判決を取消す。

ロ 被控訴人が控訴人の申立にかかる不利益処分審査請求事件につき、昭和四七年一〇月二〇日付をもつてなした静岡県教育委員会が昭和四四年一二月二七日付をもつて行なつた控訴人に対する懲戒免職処分を承認する旨の判定を取消す。

ハ 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

2  七〇号事件

イ 被告が控訴人に対し昭和四四年一二月二七日付をもつてなした懲戒免職処分を取消す。

ロ 訴訟費用は被告の負担とする。

(被控訴人)

控訴棄却。

(被告)

1  本案前の申立

イ 本件訴えを却下する。

ロ 訴訟費用は原告の負担とする。

2  本案の申立

イ 控訴人の請求を棄却する。

ロ 訴訟費用は控訴人の負担とする。

第二当事者の主張

一  三九号事件の当事者双方の主張は、次に付加するほか原判決書事実欄摘示のとおりであるから、これを引用する。

(控訴人)

1 裁決の取消を求める訴訟においては、裁判所は、イ、被控訴人が処分を取消すべきであつた(処分が違法であつたとき、又は著しく妥当性を欠いたとき)のに承認した場合のみならず、ロ、被控訴人が処分を修正すべきであつた(処分が違法ではないが、処分者の裁量に不当な点があつたとき)のに承認した場合にも、その裁決を違法として取消すべきである。被控訴人は、固有の権限として懲戒免職処分を停職・減給等の処分に修正しうるから、後者(ロ)の場合には、その弾力的な裁決によつて、免職処分からの救済をはかることができるのである。

2 ところが、原処分の取消を求める訴訟においては、裁判所は、処分庁に裁量権のゆ越または濫用があつても、それが違法であつた場合にのみ取消を命じ、それ以外の場合には請求を棄却する。言いかえれば、「前記1のロの場合」には請求が棄却され、懲戒免職処分から救済されない。

3 もし前記1のロの場合に、裁決の取消を求めて出訴することを許さず、原処分の取消の訴求のみが認められるならば、被処分者は遂に救済されないという不合理な結果になる。従つて被控訴人が処分を修正すべきであるのに承認した場合には、裁決固有の違法とみるべきであり、司法審査の対象となるものと解する。この点についての原判決の行政事件訴訟法一〇条二項の解釈は誤つているものである。

(被控訴人)

控訴人の右主張を争う。

二  七〇号事件請求の原因(控訴人)

1  控訴人は静岡県立沼津工業高等学校教諭であり、被告は控訴人の任命権者である。

2  被告は昭和四四年一二月二七日付をもつて控訴人に対し懲戒免職処分をなした。

3  しかし、右処分は違法であるから、その取消を求める。

三  七〇号事件本案前の申立の理由(被告)

現行訴訟制度においては、選挙事件の如く特別の定めのない限り、三審制度がとられている。本件訴えは行政事件訴訟法二〇条の規定に基づくものであるが、三審制度との関連において、同条の適用については一審裁判所の口頭弁論終結時までに提起すべき内在的制約を受けるものというべく、控訴審において本件訴訟を提起することは、被告に対し審級の利益を奪うものであつて不適法である。特に三九号事件においては、第一審裁判所の口頭弁論において、数回にわたり裁判長は、控訴人に対し同事件の被告を処分庁に変更すべきことを勧告しており、処分庁は昭和四九年六月六日補助参加の申立をしているものであるから、現時点における本訴の提起は不適法なものである。よつて本件訴えは却下されるべきである。

四  七〇号事件本案の答弁(被告)

請求原因1、2の事実を認める。

五  七〇号事件抗弁(被告)

1  控訴人の静岡県公立学校教員としての経歴は、次のとおりである。

昭和四〇年四月  静岡県立下田南高等学校(以下下田南高という)教諭

昭和四四年四月  静岡県立沼津工業高等学校(以下沼津工高という)教諭

昭和四四年一二月 懲戒処分として免職。

2  被告が控訴人に対して懲戒免職処分をした理由は、次の(一)ないし(九)のとおりである。

(一) 控訴人は、昭和四四年一〇月二一日東京都において、沖繩奪還、安保粉砕、佐藤訪米阻止等を目的として行われたいわゆる国際反戦行動に参加して逮捕され、一一月一二日釈放された。控訴人は、一〇月二〇日、二一、二二日の三日間年次休暇をとり、上京して前記国際反戦行動に参加したものであるが、控訴人の同日の行動をみるに、白ヘルメツト、軍手、タオルを着用の上、反日共系中核派の集団に加わつた。右集団は、高田馬場駅付近で機動隊に対し火炎ビン数本を投げ、角材で機動隊員に殴りかかつた。このため右集団のうち約三〇名が、一〇月二一日午後五時頃、新宿区戸塚町三丁目付近で凶器準備集合罪、公務執行妨害罪の現行犯として逮捕され、控訴人はその一人であつた。控訴人の当日の行動及び逮捕の事実は、新聞、テレビ等で報道された。

(二) 控訴人は、昭和四三年八月三日ないし五日、昭和四三年度夏季行事として社会研究部の校外調査名目で東京に行つた。このとき同部指導教師として同行の生徒氏名を明らかにせず、宿舎の照会を一切生徒にまかせ、訪問先は反日共系の各大学、王子米軍野戦病院、前進社、戦旗社などであり、反戦関係の資料を多く持ち帰つた。

(三) 控訴人は下田南高在任時、通勤用ビニール製手提鞄に「安保粉砕」と書き、毎日それを持参して出勤、退出した。また、幅二センチメートル、長さ一〇センチメートル位の「交通安全」と印刷されたビニール製リボンを裏返し「教特法反対」と書き、胸につけて勤務した。

(四) 控訴人は、昭和四四年六月八日伊東市において開催されたアスパツク反対集会およびデモ行進に参加し、ヘルメツトを被り、勤務先の沼津工高生徒二名を含む高校生を参加させた。

(五) 控訴人は、前任校(下田南高)在任当時指導した同校生徒森あけみに対し、

六月一日(日)には、同人を電話で呼び出し、友人三名と沼津へ行くと称して家出させ、実際には、伊東のアスパツク阻止行動のデモ行進に参加せしめ、その後静海会館での高校生の会議にも出席させ、同人ら高校生を指導し、

六月八日(日)には、前日家を出たままの同人を伊東のアスパツク反対の集会ならびにデモ行進に参加せしめ、「反戦青年委員会沼津地区」と書かれた旗の下で同人とその友人を指導し、

六月九日朝同人宛電話をかけ、学校を遅刻、早退せしめた。

同人は、その後九月に控訴人の指導と家庭の指導との板ばさみになり、自分から中途退学をした。

(六) 控訴人は、昭和四四年八月三一日(日)県立掛川西高等学校生徒の校則違反等の指導措置に反対し掛川公園にて開かれたいわゆる掛西高不当処分撤回闘争の八・三一掛川大集会ならびにその後の掛川市内のデモ行進にヘルメツトを被り参加し、参加高校生を指導した。

(七) 控訴人は、昭和四四年一〇月一八日(土)沼津市西武デパート前で「新宿の町から機動隊を追放し首都を解放し、首相官邸に向けて大ばく進をしよう」という趣旨の「一〇月二一日新宿へ」と題するビラを配布した。

(八) 控訴人が昭和四三年度第一学期末及び昭和四四年度第二学期末試験において作成した担当科目の英語の試験問題は、政治的色彩の強い内容のものであつて、生徒の英語の学習測定のものとしては、はなはだ不適当なものであつた。

(九) 控訴人は、昭和四四年七月一八日、前任校(下田南高)教員あて「民主的教師を打倒せよ」という反体制的内容の原稿を送付し、同校教員が印刷し配布した。

3  裁量権の基礎となつた事実

(一) 控訴人は、昭和四一年一二月二三日付で、いわゆる一〇・二一ストに参加し、午後〇時一〇分から午後四時二五分まで職務を放棄して、戒告処分を受け、

(二) 昭和四三年一月一七日付でいわゆる一〇・二六ストに参加し午前八時一〇分から午前九時四分まで、職務を放棄して減給(一〇分の一)一月の処分を受け、

(三) 昭和四四年一〇月二〇日付で、いわゆる七・一〇ストに参加し午後九時三分から午後九時三〇分まで職務を放棄して戒告処分を受け、

(四) 前記二項(一)の事実で逮捕釈放後の一一月下旬頃「獄中雑感」と題する印刷物を作成し、沼津、三島において生徒を含めた不特定多数人に配布した。その中には、次のとおり控訴人の思想と釈放後の行動目標が述べられているが、教育者として到底認められない不適切な文言が用いられており、前記処分理由たる事実に対する一片の反省も認められない。

(イ) 「現在の日本の現実は何ら監獄と変わりはしないのだということであり、まだ自由があると思うのは全くの幻想であつて、人間としての本来のあり方を本源的(ラヂカル)に追求しようとすれば、それを行動を通じて実現しようとするならば、われわれ人民には何らの自由もないのだということです。自由があると思いこんで現状に安住している人は奴隷としての自由に安住しているにすぎない。権力にひざまづき権力に許された範囲内での自由(それは、人間の自由ではない。奴隷の自由だ。)に安住しているにすぎない。私は、教育労働者ですから、学校を例にとるなら、学校は本質的に監獄と何ら変わらないということです。

教育労働者と高校生に一体、人間的政治的自由があるだろうか、自分の主張を書いたビラ一枚も自由だろうか、教師は骨の髄まで権力に屈服しており、権力の番人、獄吏になりはててしまつており、生徒諸君は、獄中の囚人と全く同じく人間としての権利を奪われています。私は、肩をいからせて歩いている看守の姿に自分自身の姿を見、思わず苦笑しました。監獄はどこか遠くにある別世界ではなくわれわれの現世界そのものが軍事監獄化しているということです。

(ロ) 今起訴されて職場から追放された場合、私は犬死になるのではないか。不起訴であれば復職できよう。いま少し権力と妥協し、職場に帰り「反戦」の組織化を再構築すべきではないか。人間の変革をめざす教育労働者としての仕事が残つているのではないか。

だが、これらの思惑は権力に対する日和見主義の合理化であつただろう。ここで権力に屈服し、起訴をまぬがれ職場にもどることができるとして、私に一体何ができるだろう。大衆の前で革命が必要であることを語ることはできなくなるだろう。沼津反戦はいいもの笑いの種となるだろう。」

4  本件事案の背景

(一) 昭和四四年は、一〇月二一日の国際反戦デーの行動を始めとして、一連の学園紛争から過激な街頭デモなどで、いうならば日本国中が揺れ動き、動揺した一年であつたといつても過言ではない。いわゆる東大事件京大事件などを始めとする学園紛争、これに対する機動隊による学園の封鎖、解除、街頭では過激なデモ等々、社会の耳目をそばだたせた事件が相次いだのである。例えば、四月二八日は、沖繩デーの中央統一集会をしめだされた学生らが、東京駅から線路上をデモして交番に投石放火をし、また、新幹線や国電がストツプし、逮捕者は九六五人にのぼつたと報じられており、六月八日には、アスパツク反対で反代々木学生と反戦青年委員会の労働者が伊東で機動隊と衝突し、二〇七人逮捕され六一人が負傷し、六月九日には辻堂、小田原両駅で衝突し一四四人が逮捕され、伊東でも四六人が逮捕されたと報じられており、そして一〇月二一日には東京や大阪で過激派学生らのゲリラが続発し、全国で一五〇〇余人が逮捕されたと報じられている。さらに二月一六日には、首相訪米阻止の反代々木学生、反戦青年委員会の労働者が東京蒲田駅周辺を中心に各地でゲリラ戦を展開して全国で二〇〇〇人以上が逮捕されたと報道されている。このほか大小さまざまな、いわば社会の常識を疑わしめるようなデモが続発展開している。そして、このようなデモ等の行動は、最初はゲバ棒、ヘルメツトといつたものから次第に火炎ビン、鉄パイプといつた兇器が出現し、デモの態様も過激の一途をたどり、デモからまさしくゲリラ戦といつた風にエスカレートしていつたものである。

控訴人が加担したいわゆる一〇・二一国際反戦デーにおけるデモは、その最も過激なものの一つである。こうした過激な街頭デモなどで、どれだけ多くの罪のない善良な市民が多大の迷惑を蒙むつたかは、はかり知れないものがあるといわなければならない。ゲリラ戦やデモの行われた地域の商店は、早くからシヤツターを降して店を閉め、臨時休業をせざるを得ない状態であつたし、また住民も家をしめて、台風の時のような防備を固めたと伝えられ、まさに無法地帯が出現して良識ある人々は、眉をひそめてデモ参加者を批判したのが現実である。

(二) 一〇月二一日前後の社会不安の状況の概略は次のとおりである。

まず一〇月一八日には、全国各地でデモ、ゲリラ戦が続出し、首相官邸、自民党本部、東京拘置所などで火炎ビンが投げ込まれ、さらに一〇月一九日には自衛隊市ケ谷駐屯地が襲われた。一〇月二一日の新聞は一面トツプに大見出しで「全国に緊迫感今日反戦デー」と報じている。前述したように一〇月二一日には、全国民が不安のうちにその日を迎えるといつた状態であつた。デモ、ゲリラによる市街戦に襲われそうな地域の商店はシヤツターを閉めて、臨時休業するといつた状態で、住民は自衛団、自警団を組織するなどしてその防衛対策に苦慮し、また、国鉄をはじめとする交通機関にあつても同様に対策に頭を痛めて備えを固めた。このような状態の中で、人々に大きな不安を抱かせながら、いわゆる一〇・二一国際反戦行動がくり広げられたものである。ヘルメツト、タオル覆面といつた異様な風体で、石塊、火炎ビンを投げつけ、角材、鉄パイプをふるつたその行動の激しさ、無法さは全く世論から浮き上つたメチヤクチヤな行動と評するほかはない。派出所が襲撃され、新宿、高田馬場駅付近を中心として各地で石塊、火炎ビン投てきが行われ、国電等の交通機関がマヒ状態とされ、乗用車が炎上させられるなど反戦という平和主義とは裏腹に暴力を振い、東京都を半身不髄にしたことは、矛盾も甚だしいものであると言わざるを得ない。

(三) 新聞の論調、社説、投書などをみても、いずれも猛省を促すものばかりで、支持するものは見当らない。とくに教師がこのような行動に参加し、行動を共にしたということは、社会に対する信用を失墜し、全体の奉仕者にふさわしくない行為をなしたものと言わざるを得ない。およそ教師は「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」(教育基本法第一条参照)に当るべく極めて重要な職務を担当遂行しているものであり、教師の言動の児童・生徒に及ぼす影響は、まことに大なるものがあることは言をまたない。こうした重要な職責を有する教師は、法を守り社会の秩序を守り、その言動には充分な注意を払うべきことが要請されているのである。

控訴人が一〇・二一国際反戦行動に参加して逮捕されたことは、新聞・テレビ等で大々的に報道されてまことにセンセーシヨナルな話題となつた。その行為に対して、世間あるいは地域住民から激しい非難をあびせられ、特に多くの父兄に激しい動揺と不安を与えたものである。

5  教諭の職務

教諭は生徒の教育を掌る(学校教育法五一条・二八条六項)。生徒の教育とは、単に授業による知識の注入にとどまるものでなく、授業時間の内外、学校の内外を通じての生徒の訓育教化をいうものである。

「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(教育基本法一条)のであつて、学校教育は教育のもつとも重要な役割を担うものであるから、「学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」(同法六条二項)ことは当然である。

このような教員の職責を完たからしめるため、県立高等学校の教諭は、地方公務員としての「すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに従事しなければならない」(地方公務員法三〇条)、「教員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない」(同法三三条)という一般的な義務に加えて、政治的行為の禁止については国立学校の教育公務員の例により、「政治的行為」(人事院規則一四―七)所定の行為が禁止されているのである。(教育公務員特例法二一条の三、一項)。

6  教諭の政治的行為の禁止

右人事院規則は、国家公務員が「特定の内閣を支持し、又はこれに反対すること」(五項四号)及び「政治の方向に影響を与える意図で特定の政策を主張し又はこれに反対すること」(同項五号)という、政治目的のために「職名、職権又はその他の公私の影響を利用すること」(六項一号)「集会その他多数の人に接しうる場所で又は拡声機、ラジオ、その他の手段を利用して、公に政治的目的を有する意見を述べること」(同項一一号)及び「政治的目的を有する署名又は無署名の文書を発行し、配布し、又はこれらの用に供するために著作し又は編集すること」(同項一三号)を禁止しているが、右各行為の禁止は地方教育公務員についても同様である。

とくに教諭が生徒に対して禁止された政治的行為を行うことの違法性は、国家公務員の場合に比して格段に重いことは自明の理である。高等学校の生徒は、政治、経済等の社会的現象について強い関心を抱く反面、その思考力及び判断力はきわめて未熟であつて、教諭の影響をきわめて受けやすい状態にあるから、教諭が生徒に対して政治的行為を行い、もしくは生徒に直接影響を与えるが如き政治的行為をなすことは、教育本来の目的に違背した悪影響を及ぼす結果となることは言をまたないところである。

7  信用失墜等行為の禁止

主権在民を基本原則とする日本国憲法のもとにおいては、公務員は全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではなく(一五条二項)、その任命罷免は国民の固有の権利である(同条一項)。

教諭は、次代国民を担う生徒の訓育教化にあたるものであつて、その職務の公共性は公務員のうち最も高いものの一である。されば、職務の履行にあたつては、全力を尽して教育の目的に沿つた生徒の訓育教化に専念しなければならないことは言をまたない。

しかるに、教諭が生徒に対して政治活動を指導ないし煽動することは、職務上の義務に違反するものであるが、さらに革命を目的とする反戦団体の一員として、一〇・二一反戦活動に積極的に参加して、逮捕されるが如きは、父兄のみならず、国民の教諭に対する信用を失墜し、同じ職場にある教諭全体の不名誉であることは言をまたないところである。

8  控訴人の行為の評価と本件処分の妥当性

(一) 組織に加入して反戦活動を行う者が確信犯にも比すべき強い信念をもつて行動し、容易に考え方を変えたり自己の行動に対する反省がないことは公知の事実であるが、控訴人も例外ではなかつた。

控訴人の思想、学校教育に対する考え方は、さきに引用した文章と当法廷における供述、態度に徴して明らかであるが、処分理由事実たる各行為はかかる思想、考え方に基いてなされたものである。しかして、控訴人が自己の行動を是とし、全く反省の色がなかつたことは、「獄中雑感」の内容(乙第三九号証、以下書証につき第を省略する)、逮捕勾留中の完全黙秘(乙三六号証・当審控訴人本人の供述)、釈放後、中村校長に対する「こんどのことは自分の信念でやつたことで間違つているとは思わない」旨の抗議(乙五七号証一一頁三行目)等に徴して明らかである。

要するに、控訴人が高校教諭として不適格な人物であり、且つ、矯正不能であつて、将来においても同様な行動をくりかえし、生徒に悪影響を及ぼし、父兄の学校に対する信頼を破壊することであろうことは必至である。

(二) 控訴人の処分事由として挙げた控訴人の行為は教諭としての服務上の義務に著しく違背するものであるが、3「裁量権の基礎となつた事実」においても述べたところに前項掲記の控訴人の矯正不能な不適格性をあわせ考えるならば、控訴人に対して懲戒免職処分を択んだことが適法妥当であることは、一点疑問の余地なきものと信ずる。

六  七〇号事件抗弁に対する認否(控訴人)

1  抗弁1(控訴人の経歴の主張)を認める。

2  被告の主張する本件処分理由事実は(一)から(九)まであるが、その認否は次のとおりである。

(一) のうち、昭和四四年一〇月二一日東京都において、控訴人が国際反戦行動に参加し、逮捕され、一一月一二日釈放されたこと、一〇月二〇日から二二日の三日間年休をとり上京し、右の行動に参加したこと、同日同人がヘルメツト、軍手、タオルを持つていたことは認める。しかし、その他は否認する。

同日控訴人は高田馬場駅付近の機動隊との衝突事件には全く関係していない。

(二) 昭和四三年八月三日から、夏季休暇期間控訴人が上京したことはあるが、被告主張のようなことはしていない。

(三) 控訴人が運動具店からサービスにもらつた白色のビニール鞄に友人が「安保粉砕」とマジツクインキで書いたものを所持していたこと、日教組の運動方針に従い同僚組合員らと共に「教特法反対」のリボンをつけていたことがあることは認める。

(四) 控訴人がアスパツク反対のデモ行進に参加したことはあるが控訴人が高校生を参加させたことはない。

(五) 六月一日のデモ行進に参加したことはあるが、控訴人が森あけみを呼び出したり、高校生の会議に出席させたことはない。控訴人はもちろん静海会館の会議にも出席していない。六月八日のデモ行進に参加したことはあるが、森あけみを指導したことはない。

六月九日控訴人は森あけみに電話をかけたことはない。

森あけみが退学したのは、同人が演劇をしたいという理由であつたと、下田南高の教師から聞いている。

(六) 八月三一日のデモに参加したことはあるが、参加高校生を指導したことはない。

(七) 否認。

(八) 被告主張の学期末の英語のテスト問題を控訴人が作成したことは認める。全問題を控訴人が作成したもので、当時被告が主張するようなことを問題とされたことは全くなかつた。

(九) 被告主張の原稿を送付したことはある。

これは当時旧任校であつた下田南高の教師の間で、生徒指導の問題について、教師の意見を出し会つて文集を作ることがきめられた。控訴人は沼津工高に転任した後であつたが旧任校であつたことから友人にすゝめられて、控訴人が原稿を書いて送つたにすぎない。

3  被告が処分理由としてあげている(二)から(九)にわたるものは本件処分事由説明書に記載のないものであり、(四)(五)のアスパツク反対の集会・デモは労働組合・民主団体の主催するもので、控訴人はその一員として参加したもので、かなり多数の高校生もそのデモに参加していたが、控訴人がその指導をなしたということはない。

(六)の集会・デモに参加したのも同様である。

4  その他の処分事由についても、これらが信用失墜行為とか公務員にふさわしくない非行にあたるとはいえず、地公法二九条各号のいずれにも該当しないものである。

5  被告は、本件懲戒免職処分の第一の理由として、「控訴人は、昭和四四年一〇月二一日東京都においていわゆる国際反戦行動に参加したものであるが、控訴人の同日の行動をみるに、白ヘルメツト・軍手・タオルを着用の上、反日共系中核派の集団に加わつた。右集団は、高田馬場付近で機動隊に対し、火炎ビン数本を投げ、角材で機動隊員に殴りかかつた。このため右集団のうち約三〇名が、一〇月二一日午後五時頃新宿区戸塚三丁目附近で凶器準備集合罪・公務執行妨害罪の現行犯として逮捕され、控訴人はその一人であつた」ということをあげている。

(一) しかし、控訴人が一〇月二一日東京都において国際反戦行動に参加し逮捕され、一一月一二日釈放されたこと、同日同人が白ヘルメツト・軍手・タオルを持つていたことは争いがないが、控訴人は高田馬場駅付近の機動隊との衝突事件には全く関係していない。

(二) そして何より明らかなことは、控訴人は逮捕勾留はされたが不起訴となつていることである。

「刑事犯罪の訴追を受けた人はすべて法律に従つて有罪と立証されるまでは、無罪であると推定される権利を有する」(人権に関する世界宣言一一条一項)のであり、控訴人は公訴の提起さえ受けていないのであるから、そのことを理由に不利益な取扱いをすることは、法の前の平等・公正の原則(地公法二七条)に反するものといわなければならない。

(三) しかも、被告の主張する理由をみても、控訴人の具体的行動は何等特定されてもおらず、また主張もされていない。控訴人は高田馬場駅のはるか手前で逮捕されたものであつて、同駅付近の事件に参加したことはありえないのである。

被告がこの点の立証として人事委員会の審理のなかで提出した証拠を検討してみても、控訴人の同日の行動を明らかにするものは何もないのである。

乙三五号証の検察庁の回答によれば、公務執行妨害兇器準備集合の罪名しかなく、警察の回答である乙三四号証の放火未遂が欠落している。

乙三三号証の報告書は、警察での説明では「駅を占拠し、電車のシートを外してバリケードを作り火炎ビンを投げた」とあり、検察庁では「地下鉄を大手町方面から西進し、高田馬場駅で下車した三〇名位の集団」のなかに、控訴人がいたとの説明だつたと記載してあり、その内容はまちまちである。

このようなくいちがいは現行犯逮捕した警察・検察においても、控訴人がどこで何をしていたのか全く特定することができなかつたことを示すものであつて、起訴しうるようなものではなかつたのである。

したがつて、被告が本件処分理由としている、控訴人が「過激な集団の一員として行動し」(処分事由説明書)たということを示す何等の証拠はない。

(四) 地公法二七条はすべて職員の懲戒については公正でなければならないとしている。昭和五二年三月、神奈川県人事委員会は厚木小学校教諭杉山圀昭が昭和四六年一一月一九日日比谷公園のいわゆる松本楼焼き打ち事件のあつたとき、現行犯逮捕され、起訴され、懲戒免職された審査請求事件について同人に対し無罪判決が確定したのに対し、結局「申立者は一部集団の中にあつて行動を共にしたとの事実を認定しうる証拠はない」として、懲戒免職処分の取消しをしている。

この裁決は当然のことであつて、控訴人の場合は、公訴の提起すらなされなかつたのであるから、単に逮捕勾留されそのことが新聞に報道されたというだけで何等の証拠もなく本件処分をなすことは明らかに違法である。

(五) また本件処分は、平等取扱の原則(地公法一三条)にも反する。

三九号事件において述べた金原教諭に対する被告がなした六月停職の懲戒処分の処分事由は乙二六号証の記載のとおりであり、それは右にあげた神奈川県人事委員会の事例と同一の事件で逮捕された事案である。

被告が控訴人になした本件処分と、右金原教諭に対するそれとを比較すれば、何等合理的な理由もなく、本件は免職という最も苛酷な処分をなしているものであつて、憲法一四条一項・地公法一三条に違反するものである。

6  本訴において、被告は控訴人の本件処分理由として、右にあげたことのほかに、五、抗弁2の(二)ないし(九)の理由を追加主張している。

(一) そのうち、(二)は控訴人が下田南高に在勤中のことであるが、控訴人がクラブ活動の顧問として、夏休み中生徒と共に上京した。そのとき王子病院の写真などをとつてきたが、それらのものを秋の文化祭のとき生徒が展示したというのである。当時控訴人のこの行動が学校内において特に問題になつたことはない。山本繁の証言をみても「そのような生々しいものを展示するのは、教育上問題があると考えて、多少変更して展示しろと言つた」という程度のことであつて、控訴人が生徒と共に上京したことが懲戒理由に該当するものではない。

(二) 処分理由(三)も、控訴人が下田南高在任中のことであるが、控訴人が安保粉砕と書いたカバンを使用していたが、山本繁の証言によれば「私はそのことについては別に注意しませんでした」というのであり、また教特法反対のリボンをつけていたのも、「そう長い間ではなかつたと思う」ということであり、「これについても控訴人には注意できませんでした」というのである。

いづれも、当時控訴人のかゝる行動が特に問題になつたわけでもなく、ましてこれらの行動によつて、控訴人が免職にあたる懲戒事由というに足りることではない。

(三) アスパツク反対集会とデモ行進に参加したことについても控訴人は争わないが、たゞ控訴人が生徒を控訴人の指導によつて参加させたことはない。高校教師が右集会、デモに参加することは、とりたてゝ問題となるものでもなかつたし、当時静岡県内の高校生が多数参加した事実もあつた。しかし、控訴人は特定の生徒を指導し、それに参加せしめるということはなかつた。

(四) 処分理由(五)において、被告は控訴人が森あけみに各種の動きかけをしたということであるが、かゝる事実はないし、また被告はその主張にそう証拠を提出したわけでもない。森あけみの祖父が沼津工高の中村校長に抗議にきたというのであるが、同校長はそのとき控訴人に対し直接話はしていない。もし、そのことが見逃すことのできない重大なことであれば、当然校長として控訴人に注意するよう控訴人に対しその事実の有無をたしかめるはずである。中村校長が何らかゝることをしなかつたのは、その必要を感じなかつたからだと理解されるのである。

(五) 処分理由(六)の掛川集会に控訴人が参加したことはあるが、高校生を指導したわけではない。それには控訴人だけではなく、他の高校教師も多く参加しているのであつて、とりたてゝこれが免職の理由となるいわれはない。

(六) 処分理由(七)について、被控訴人の判定をみても、控訴人がこのビラを西武デパートの前で配布したという事実は認められないのである。

(七) 処分理由(八)によれば、被告はこの試験問題が「政治的色彩の強い内容のもので、生徒の英語の学習測定のものとしては、はなはだ不適当なもの」というのである。

教師の教育内容が適当か不適当かということを判定することは困難な問題である。教育内容は、まず担当の教師の自主的な判断に委ねられるべきものであつて、その内容が適当か不適当かを画一的に判定することはできない。

まして、それが懲戒免職処分の理由とされるということは本来あつてはならないはずである(教育基本法一〇条)。これらのテスト問題が、当時学校内において、被告が主張するような点で問題になつたことがないことは明らかである。これらの問題を出題した意図は、懲戒理由とされてはならないことである。

(八) 最後に、被告の主張する処分理由(九)であるが、これは旧任校である下田南高の教師に頼まれ控訴人は原稿を書いたものである。

控訴人の思想、考え方の如何によつて免職の理由とされることは、思想の自由、学問の自由を保障した憲法の人権保障に反するものであつて許されないことは当然である。

7  わが国の現在の大きな社会問題の一つは、学校教育のあり方である。

高校教育が青年の思考力を育てるという方向において行われていない。生徒の「何故」「どうして」という懐疑の精神、創造力の涵養ということに全く無関心であるどころか、それを死減させるような方向で行われているのではないかということが指摘されている。

今日の高校教育のあり方は、政治経済の社会現象を断片的に羅列し、その間のつながりを全く等閑に附し、従つてそのような諸現象が発生し、またそれがどういう方向に行くのかという論理的脈絡を全然無視する傾向があるといわれている。

「教員は全体の奉仕者である」ということは、教員が生徒への接触をふくめてある政治的社会的現象に対して、没主体的であり無関心でなければならないということであるはずはない。もしそのような教員によつて生徒の教育が行われるならば、そういう教員によつて教育された生徒は、それこそ政治的社会的現象を相互の関連なしにまたそれに対する主体的反応もなしに、単に現象を現象としてみるという、恐るべきロボット人間を大量につくり出すということになるだけである。それによつて、青年が荷うべき日本の学問思想は、ひたすら退廃の一途をたどるものとなるばかりである。

教育委員会は高校教員に対し「全体の奉仕者」という統制を押しつけることによつて、没主体的なロボット青年を大量に生産することを求めているのであろうか。もしそうであるなら、日本はひたすらに滅亡の道をつき進むことになるであろう。

戦前、戦時、青年であり学生であつた世代の控訴人代理人としては、まさに戦時下において日本の教育がそのようなものであつたことを思い、慄然たる思いを禁じえないのである。

控訴人は、昭和四〇年四月高校教師になつてから本件処分まで日常の教育活動において特に問題にされたものは何もないのである。懲戒免職処分は、服務規律を害したものに対する懲戒としてなされる最も苛酷なものである。

被告が本件処分の理由としてあげる大部分のものは、控訴人の勤務時間外、勤務場所外の控訴人の市民としての行動であつて、本来それは懲戒処分になじまないものである。

しかも、そのいずれもは、少くとも免職の理由となるものでは絶対にない。

本件免職処分は違法のものであり、取消しを免れないものである。

第三、証拠〈省略〉

理由

第一、三九号事件について。

当裁判所も控訴人の被控訴人に対する判定取消の請求を理由がないものと認める。その理由は、次に付加するほか、原判決がその理由において説示するところと同一であるから、これを引用する。

控訴人は、原処分の取消を求める訴訟においては、裁判所は処分庁に裁量権のゆ越または濫用があつてもそれが違法であつた場合にのみ取消を命じ、それに不当な点があり修正を要する場合に請求を棄却するが、裁決の取消を求める訴訟においては、それに不当な点があつた場合にも、裁決を違法として取消し、処分の修正による救済がはかれると主張する。

しかしながら、処分庁に裁量権のゆ越または濫用がある場合には、その処分は不当であるのみならず違法なのであつて、そのように懲戒免職処分を停職・減給等の処分に修正すべき場合には、原処分の取消を求める訴訟においても、処分の取消を求める請求は認容される。従つて、これを裁決庁において修正しなかつたことを裁決固有の違法と構成する必要はない。右の場合は原処分において、処分の軽重を誤まつたところ、裁決においてもこれを看過したに過ぎない。結果は両訴訟とも同一であるから、行政事件訴訟法一〇条二項(取消訴訟における違法事由の主張の制限)によつて救済が制限されると解することはできない。

そうだとすれば、控訴人の三九号事件の請求を棄却した原判決は相当であり、本件控訴は理由がないから、民事訴訟法三八四条に則りこれを棄却する。

第二、七〇号事件本案前の申立について

行政事件訴訟法一九条一項前段は、取消訴訟の係属中関連請求に係る訴えをこれに併合提起することを認め、同法二〇条は、本件の如く処分の取消の訴えをその処分についての審査請求を棄却した裁決の取消の訴えに併合して提起する場合には、当該裁決取消訴訟が控訴審である高等裁判所に係属中であつても、被告の同意を要せず無条件に許している。これは行政事件訴訟法一〇条二項がいわゆる原処分主義を採用し、旧行政事件訴訟特例法のもとで一般的に理解されていたところと異なり、裁決の取消訴訟において原処分の違法を争うことを許さないため、裁決を争う事由の範囲を誤解して、裁決取消訴訟のみを提起して原処分をも争おうとする者があるかも知れず、このような誤解から出訴期間を徒過して救済を受ける機会が失われてはならないという配慮から認められたものであり、特殊な救済を目的とするものであるため、審級の利益を被告が失うこともやむをえないと定めた法規である。控訴人において、前述のとおり、裁決固有の違法について誤解している本件においても、その救済は及ぶものと解さざるを得ない。このことは原審において裁判長から数回にわたり控訴人が、三九号事件の被告を処分庁に変更すべき旨の勧告を受けていたからといつて、また処分庁が補助参加の申立をしたことがあつたからといつて、別異に解すべきではない。従つて、右のごとき事情があつたからといつて本件につき行政事件訴訟法二〇条の適用を受けられなくなるということはできない。

第三、七〇号事件本案について。

一、七〇号事件請求の原因12の事実は、当事者間に争いがない。

二、地方公務員法二九条は、懲戒処分として戒告、減給、停職、免職の四種を列挙し、懲戒の手続及び効果は条例によつて定めることを規定しているが、処分基準については何ら規定がない。このように画一的な処分基準を欠くことは懲戒権者が当該職員に対し処分をなす場合、広範な諸般の事情を総合的に判断し、最も適切な処分をなすことを法が要請しているからに外ならない。従つて懲戒権者が懲戒権を発動するかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選択するかは、懲戒権者の裁量によるべきであるが、前記各処分には軽重の差があるので最も適切な処分が選択されるべきであり、それは懲戒処分を定めた法条の趣旨に添う一定の客観的標準に照らして決せられるべきで、社会通念に照らしても合理性を欠くものであつてはならない。特に懲戒免職は、他の処分と異なり、当該職員につき、その職員たる地位を失わしめるものであるから、処分の選択に当つては、他の処分の選択に比して一層慣重になさるべきことはいうまでもない。

三、そこで、右のごとき観点に立つて本件処分について判断する。

弁論の全趣旨によれば、被告が本件懲戒免職処分の事由としたのは、七〇号事件抗弁2に記載のとおりであることが認められる。

この点について成立に争いのない乙一号証添付の処分事由説明書によると、被告が、本件懲戒処分発令の日である昭和四四年一二月二七日に控訴人に交付した処分事由説明書には、処分の事由として、「昭和四四年一〇月二一日東京都におけるいわゆる国際反戦行動に参加し、同日午後五時頃新宿区戸塚町三丁目付近において過激な集団の一員として行動し、新聞等に大きく報道された。このことは、教育公務員として、まことにふさわしくない非行でありその信用を著しく失墜した行為であり、地方公務員法三三条に違反し、同法二九条一項一、三号に該当するものである。」とのみ記載されている。

しかし、地方公務員法四九条所定の説明書には処分事由要旨を揚げれば足り、四種の処分のうち懲戒免職処分を選択するに至つた裁量の基礎となつた事実も逐一揚げる必要はないと解すべきである。

四、そこで抗弁について検討する。

1  抗弁1の事実は当事者間に争いがない。

2  (懲戒処分事由)

(一) 抗弁2の(一)の事実及びこれと密接な関係にある前後の事情のうち、控訴人が、昭和四四年一〇月二一日、東京都において、国際反戦行動に参加し、逮捕され、一一月一二日釈放されたこと、一〇月二〇日から二二日までの三日間年次休暇をとり上京して右の行動に参加したこと、一〇月二一日白ヘルメツト、軍手、タオルを持つていたことは当事者間に争いがない。

成立に争いのない乙二一、二二、二七号証、同乙三七号証の一〇、一一及び右乙二一号証によつて成立を認めうる乙三三ないし三六号証(乙二一号証中で、乙二ないし五号証と記載されているもの)によれば、次の事実を認めることができる。(1)、控訴人が当時勤務していた沼津工業高校の中村辰雄校長は、昭和四四年一〇月一八日に父兄と称する人から電話で、控訴人が今、沼津駅前西武デパート付近で、「一〇月二一日の国際反戦デーに東京に集まろう」、或は「10・21新宿へ」という趣旨を記載したビラを配付しているという連絡を受けたことがあり、同年一〇月二一日以後の新聞に大きく反戦デーの東京の混乱した状況が報道されていたので、その中に控訴人がまきこまれたのではないかと心配していた。(2)、同年一〇月二〇日に静岡県高等学校教職員組合(以下高教組という)の同年七月一〇日のストライキの処分発表があり、控訴人も処分を受けていたのであるが、前記中村辰雄校長は、定時制の主事を通してその処分書を控訴人に手渡そうとしたが控訴人がいなかつた。同年一〇月二三日午前九時半頃高教組の沼津工業高校分会長山口孝道から同校長に対して口頭で、控訴人からもし二二日に登校しなかつた場合には郷里に帰るから二〇日から二二日まで年休を承認してほしい旨依頼されているとの連絡があつた(山口孝道から定時制主事に右連絡があつたのは二〇日である)ので、同校長は二三日控訴人の両親に打電したところ、両親からは同日一二時半頃、郷里に控訴人が在宅していないとの返事があつた。(3)、同校長は、控訴人が登校しないので二四日以降補欠授業をするよう指示したが、授業計画等校務運営上の問題からも早く所在を確認しなければならず、父兄から、控訴人が生徒に「捕まるかも知れない」ともらしていたということを聞いて、静岡県教育委員会(以下県教委という)県立人事係長河合九平と相談した上同年一〇月二八日に教頭と共に警視庁に行き、逮捕され勾留中の控訴人の写真を見せられて確認し、県教委に報告した。

(4)、昭和四四年一〇月二九日付朝日新聞全国版に「静岡にも逮捕教師10・21デモ」の見出しで、高校教諭がこの種の事件で逮捕されたのは初めてであるとして、「逮捕されていたのは静岡県立沼津工業高校定時制の山口武教師(二八)。調べによると二一日夕新宿区戸塚の道路にバリケードを築いたり投石や火炎ビンで交番を襲撃していた中核派反戦と学生のグループにまじつていたところを放火未遂、兇器準備集合、公務執行妨害罪でつかまつた。」等と報道され、同日付同新聞伊豆岳南版にも、同日付読売新聞の静岡版にも、住所、氏名、職業入りで報道された。(5)、県教委は、同年一一月二二日に県立学校人事管理係の鈴木忠夫と田代守人を警視庁と東京地方検察庁に、同年一二月一七日に県立人事係長河合九平と総務課法規係長平川忠義を東京地方検察庁に、それぞれ出張調査させた。(6)、その結果、控訴人は同年一〇月二一日に白ヘルメツトと軍手とタオルを持つていただけではなく着用していたこと、控訴人はマツチを持つていたこと、控訴人の含まれていた集団は、労働者中心の中核系(地区反戦が主体)で、駅を占拠し、電車のシートを外してバリケードを作り、火炎ビン数本を投げ、警察官(機動隊)の規制に対し角材で抵抗した激しい集団であつたこと、逮捕日時場所は、昭和四四年一〇月二一日午後五時一〇分頃新宿区戸塚三―八六国電高田馬場ガード下で、逮捕罪名は、公務執行妨害、兇器準備集合、放火未遂であること、控訴人は最終処分として不起訴になつたが、罪とならず嫌疑なしではなく、犯罪の成立を認めた上で情状が軽いという起訴猶予であること、控訴人は終始黙秘を続け、親を呼んで説得したが最後まで黙秘であつたこと、被疑事実は、同四四年一〇月二一日午後五時一〇分頃新宿区戸塚三丁目八六番地付近で控訴人らのグループ約三〇名の集団のうち数名が機動隊に火炎ビンを投げたこと(控訴人が直接投げたのではない)で、上野警察署に同年一一月一二日まで勾留されたこと等が判明した。(7)、校長は同年一〇月二四日以降の控訴人担当の定時制の英語の授業を全日制担当の教師三名に頼んで翌年三月まで補欠授業してもらうことにした。控訴人は教科書を途中で使用しなくなり、プリントを使用して授業をしていたが、右三名の補欠の教師は教科書を使用して授業を始めており、控訴人が同四四年一一月一三日に登校しても、授業の内容を急に変更するわけにもいかなかつたため、学校側では控訴人の教壇への復帰を直ちに認めることができなかつた。

(二) 被控訴人は抗弁2の(二)ないし(九)までの事実をも本件処分理由として主張するが、これらの事実は処分理由説明書に記載のない事実であるから、地方公務員法四九条が、処分事由の説明書の交付を命じている法意に照せば、右処分取消の抗告訴訟においても、右処分事由の説明書に記載されていた事実と同一性を有しない事実を処分事由として主張することは許されないものと解するのが相当である。しかし処分権者が右説明書に記載しない事実を情状として考慮することは差支えないし、右情状として考慮した事実まで逐一記載する必要のないことは前説示のとおりである。

そこで被控訴人主張の抗弁2の(二)ないし(九)の事実の有無をも情状として検討することとする。

抗弁2の(二)のうち控訴人が昭和四三年八月三日から夏季休暇期間に上京したことがあることは、当事者間に争いがない。

成立に争いのない乙四〇号証、原本の存在及び原本を控訴人が作成したことにつき争いのない乙四二号証及び当審における控訴人本人尋問の結果によれば、控訴人は昭和四三年八月三日に当時勤務していた下田南高校の生徒四、五名を連れて、社会歴史部のクラブ活動として、上京し、日本大学に行つて写真をとつて来たことがあり、この際は、学生運動を客観的に研究するため、調査の方法として学生に会つてインタビユーをして意見を聞くこと、また実際の闘争現場を写真にとることを計画していたことが認められる。

当審証人山本繁の証言及びこれによつて成立を認めることのできる乙四一号証によると、八月三日から五日のことについては文化祭の展示物(王子病院の写真と職旗という冊子)が東京で収集したものと推測されることと、生徒や他の教師から社会歴史部は東京へ行つたということを聞いたことが認められるが、抗弁2の(二)のうち、その余の点を認めるに足る証拠はない。

(三) 抗弁2の(三)について控訴人が運動具店からサービスにもらつた白色のビニール鞄に友人が「安保粉砕」とマジツクインキで書いたものを所持していたこと、控訴人が日教組の運動方針に従い同僚組合員らと共に「教特法反対」のリボンをつけていたことがあることは、当事者間に争いがない。

(四) 抗弁2の(四)及び(五)のうち控訴人が昭和四四年六月一日及び同月八日に伊東市において開催されたアスパツク反対のデモ行進に参加したことは当事者間に争いがない。

当審証人山本繁、同土屋芙士弥の各証言及びこれらによつて伊東市の川奈ホテルで開催されたアスパツクの会議に対する反対闘争の集会に出た控訴人や下田南高の生徒森あけみ、須貝京子の写真であることが認められる丙二号証、当審証人中村辰雄の証言及びこれによつて成立を認めうる乙四三、四四号証によれば、抗弁2の(四)のうち、控訴人が沼津工高生である橋本と野村、下田南高生である森あけみ、須貝京子等をアスパツク反対集会やデモ行進に参加させたこと、同(五)のうち控訴人が右森あけみを度々電話で呼出して反戦指導をしたことが認められる。

(五) 抗弁2の(六)のうち控訴人が昭和四四年八月三一日のデモに参加したことは当事者間に争いがない。

しかし控訴人が参加高校生を指導したことを認めるに足りる証拠はない。当審証人中村辰雄の証言によれば、この掛川西高のアスパツク反対集会参加生徒に対する処分の撤回を求める集会ないしデモ行進に沼津工業高校の生徒は参加していないことが認められ、原本の存在並びに成立につき争いのない丙七、八号証によつても指導していたことを認めるに足りず、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。

(六) 抗弁2の(七)について。前記(一)に認定のとおり沼津工業高校長中村辰雄が昭和四四年一〇月一八日頃父兄と称する人から、今沼津駅前の西武デパート付近で控訴人が「10・21新宿へ」というビラを配布しているという電話を受けたことが認められるが、右ビラが乙四六号証のとおりの内容であつたことを認めるに足りる証拠はない。

(七) 抗弁2の(八)の事実中、学期末の英語のテスト問題を控訴人が作成したことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない乙四七号証、同四八号証の一、二によれば、右テスト問題中には政治的色彩の強い内容のものが存在することが認められる。

(八) 抗弁2の(九)の事実は当事者間に争いがない。

3  (裁量権の基礎となつた事実)

(一) 成立に争いのない乙五三号証の一ないし三によれば、抗弁3の(一)ないし(三)の事実を認めることができる。

(二) 原本の存在成立ともに争いのない乙三九号証の二及び当審における控訴人本人尋問の結果によれば、控訴人が抗弁3の(四)の(イ)、(ロ)のとおりの内容を含む「獄中雑感」と題する文章を書いたこと、及びこれが一つには沼津、三島のすべての労働者、学生、市民、高校生の諸君に対し、10・21新宿闘争に沼津地区の反戦派労働者の一人として参加し、23日間逮捕勾留されていたが完全黙秘で闘い、遂に釈放をかちとつたことを報告したい、二つには控訴人の逮捕に関心を持ち支援した人々に、控訴人の留置場内での闘いとそこで感じたことを報告したという趣旨で、従つてこれが右の人々に対して印刷配布されることを予定して書かれたものであることが認められる。

4  本件事案の背景として被告の主張する抗弁4の(一)ないし(三)のうち、被告の意見にあたる部分を除く各事実は公知の事実である。

五  控訴人は、地方公務員であるから、全体の奉仕者として公共の利益のため勤務しなければならず、その職の信用を傷つけたり、また職員全体の不名誉となるような行為をしてはならないのに、控訴人の昭和四四年一〇月二一日における前記認定の所為は職場外でなされた職務遂行に関係ないものとはいえ、その動機目的が如何であろうとも、極めて反社会的な集団的過激行動に控訴人の意思によつて参加し、行動を共にして逮捕勾留されたのであるから、著しく不都合な行為で、地方公務員(特に教育公務員)としての社会的評価を低下毀損するものというべきであり、更に逮捕後の事情として前記四の2の(一)に認定したとおり、控訴人が昭和四四年一〇月二〇日から同年同月二二日までは控訴人の同僚教諭から年休の代理申請がなされ被告側もこれを了承しているが、同年一〇月二三日から同年一一月一二日まで控訴人が欠勤したのは、控訴人が逮捕、勾留された結果出勤できなかつたとはいえ、これは控訴人個人の行為に起因するものであつて、控訴人の出勤不能について被告側において受忍すべきものと考えることはできない。右逮捕、勾留が特に違法、不当であつたことを認めるに足りる証拠もなく、同四四年一〇月二八日当時控訴人が短期間に釈放されて出勤が可能となる見通しもなかつたし、前掲乙二七号証中の武田義諦の証言によると、控訴人の右期間の欠勤により沼津工高において業務上の支障があつたことは明らかであるから、控訴人が右期間出勤義務を怠つた点は地方公務員法二九条一項二号に該当し、更に前記四の2の(二)ないし(八)、及び3の(二)に認定した控訴人の各所為もまた全体の奉仕者である地方公務員にふさわしくない偏つた行動であつて、教育公務員特例法二一条の三第一項、国家公務員法一〇二条一項、人事院規則一四―七第六項一、一〇、一一、一三に違反する政治的行為に該当するものがある、という諸般の情状を考えるときは、免職処分を選択するについては特別に慎重な配慮を要することを勘案しても、被告が控訴人の前記昭和四四年一〇月二一日の所為につき懲戒免職処分をしたことは相当というべきである。控訴人は金原教諭の処分との不均衡を主張するが、同教諭と控訴人とは処分理由となつた行為を異にしているばかりでなく、情状も同一もしくは控訴人の方が悪いという証拠もないので、本件免職処分が合理性を欠くということも、裁量を越えた違法なものと解することもできない。

六  そうだとすれば、控訴人の七〇号事件本訴請求は、理由がないから棄却することとする。

第四訴訟費用の負担につき両事件とも民事訴訟法九五条、八九条を適用する。

(裁判官 岡松行雄 園田治 木村輝武)

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